日本国債の国内保有率、初の95%超え
95%、という数字に、ものすごく反応してしまった。
日本経済新聞2010/07/01: 日本国債、95%超が国内保有に
http://nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819481E1E2E2E1E38DE1E2E2E4E0E2E3E29F9FEAE2E2E2
95%, すなわち「統計的有意」である。もちろんこの場合は単に割合が95%なのであって、有意差検定して棄却の95%ではない。だがとにかく物事が、特別な状況=極端、であるとみなしてもよい水準の数字が、この「95%」の持つ響きである。日本国債の世間での扱われ方(保有状況)が極端に国内相手であるというわけだ。
記事はこの「統計的に特別な状況」を、「バランスが悪(い)」と、いっている。しかしそれだけなのだろうか。
統計的有意は、みんなが「等しくこの状況は特別」とみなすということだと思う。この数字はもとより、みんな=すなわち世界中がこれを「認識」してしまうことが、ものすごい意味をもつのだと思う。『特別さ』が、数字で裏付けられた形で世界に知れ渡るということだ。
日本の「特別さ」は、よくマスコミが自国を卑下するために強調する。でも特別であることが否定的であるかどうかは、そのことへの解釈の問題であって、一概に悪者扱いすべきでないと思う。
そこで考えた。「バランスが悪い」というが、もしかしたら「バランスが悪くなっている遠因」のほうが、よほど注視すべきなのかも知れない。この状況で「なんだか(まるく)収まっている(気がする)」のが、マズイかもしれないということだ。
売り買いできるもののはずなのに流動性が1億2千万人で閉じている。たったこれだけでもマズイ理由になり得るだろう。大変な事態を迎えた。
Comments
外国人が相手でも、日本人が相手でも、「借金」という本質は変わらないと思うのですが?
Posted by: 小池水産 | 2010.07.03 22:07
そうです。そこは変わりません。
今回の95%というのは、『「だれが持つか」が日本だけは「統計的に特別」』ということです。
Posted by: mike | 2010.07.05 11:42