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2012.11.05

鎌倉・円覺寺「宝物風入れ」で感じた「展示論」

毎年、お寺の方々(お坊さん・檀家さん)で、どの宝物を展示されるのかをお選びになっているのだろう。
鎌倉・円覚寺「宝物風入れ」に行って数多くの品物を拝見したのだが、博物館・科学館での教育活動が気になっている私としては、とても印象深かった。

もちろん写真撮影謝絶なのでこのWebサイトで展示の様子をお見せすることはできないのだが、とにかく、ぎゅーっと詰め込んで大量に、そして細い廊下の壁など「人が触れてしまいそう」なところも余すところなく掛け軸や巻物を並べて、お見せになっていた。
意図か偶然の産物か、この展示方法の力強さに、畏れ入った。そんな心持ちがした。

美術館・博物館は、文物を並べることで作られた、その時代の風物の、いわば「シミュレーション」である。Lisa Roberts "From Knowledge to Narrative: Educators and the Changing Museum" で、そういう記述を読んだ。
我々は、美術館の提供する図録や解説札、ミュージアムガイド等を、ともすれば展示や作品そのものよりもありがたがってしまうことがある、といった趣旨で Roberts は指摘する。

日本では特に、しばしば美術館で、かなりの長蛇の列をわざわざ並んで、海外からの作品を見ることがある。が、そういうときにも、作品よりも横の説明書きのほうに気を取られてしまうかのような人を散見する。
たしかに展示・作品に関する知識が無いと感じる「有学」なひと(本エントリは仏教寺院の話なのでこの語を用いてみました(笑))は、解説を欲しいし、それをありがたいと思う。でも、健康な人であれば、作品や展示を自分の心と体でありのまま受け止めて、それを良いだの悪いだの、面白いだのつまらないだの、言うのも大事なのではないかという考え方も、できる。
また、ほんとに触れられてしまう(あるいは、誤って触ってしまい下手をすると壊しそうな)近さで見せるのは、その逆のときの「ありがたそう」に見せてしまう誘因にもなりうる柵やパーティションの存在を、あたかも全力で否定しているかのようで、圧巻である。

今回出会った、解説はさておきぎっしりと詰め込んで多く見てもらおうとする姿勢は、別に観覧者を軽んじているわけではなく、作品の力強さを伝えようという思いの表し方の一つともとれる。
翻って、学芸員らはどうすればよいか。考えさせられるところである。「科学コミュニケーター」も、同様であろう。

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